今日は素晴らしい日だ~プロポーズ

子供の頃の幸代の思考に幸代計算機とあだ名を付けたのはエンジニアの祖父だ。計算機と言っても幸代はお金の損得を秤にかける訳ではない、むしろその逆でいつも損したり小遣いが足りなくなったりしている。

昔、小学校の低学年時代に算数が苦手だった幸代の計算を見ていた祖父が、幸代がみかんの数とリンゴの数を足して合計を出せないのは、みかんとリンゴを全く別のものと認識しているからで、山を三つと川を三本の合計ができないのと同じに考えていることに気が付いた。
祖父が例を変えて説明すると、幸代は算数が得意になって、大学は理系に進学した。
幸代は理系でありながら右脳を駆使した画像認識的な発想をし、検証すると的を得ていることが多いので、大学の友人も幸代の直感を幸代計算機と呼んでいるのだ。

10円玉と正義の味方

その大学も一週間後に卒業式、今日はサークルの後輩が開いてくれた卒業送別会、俗に言う追い出しコンパの帰り道、居酒屋街から駅に続く道を一人で歩いている時だった。

10m程先にあるジュースの自販機の前で土下座して謝っている気の弱そうなサラリーマンに、3人組の酔っぱらいが「こいつが邪魔なんだ!片づけちまえ!」と言っているのが目に入った。
見るからにヘタレな気弱サラリーマンは道に手をついて「やめて下さい!」と叫んでいた。

幸代は走って3人組の酔っぱらいの前に立つと言った。
「土下座して謝ってる人に、三人掛かりとは卑怯でしょう!」

酔っぱらいの一人が言った。
「なんだこの女、訳分かんないこと言ってんじゃねえぞ!」

幸代は何か言おうと思ったが、体が先に動いてしまった。
中学時代から空手を習っていた幸代は二段、女子ではあるが二段なら普通の男性二人相手でもほぼ勝てる、まして酔っぱらっていれば3人でも楽勝だ。
次の瞬間、男たちは三人同時にゴミ袋の間にひっくり返っていた。

三人はヨロヨロ起き上がりながら幸代に向かって、
「何すんだバカヤロー!」
「ふざけんじゃねえぞ!」
「ひでぇことしやがって!」
口々に大声で叫び始めた。

その時、「警察だ!」という声が聞こえると、三人はフラフラしながら逃げて行った。
幸代は道に手をついているヘタレ男に声をかけた。

大丈夫ですか、怪我はないですか?

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幸代

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ヘタレ男

ありがとうございます。怪我はないし、あなたのお陰でギリギリのところで拾えました。

何を拾えたんですか?

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幸代

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ヘタレ男

10年玉、落として探してたんです。

えっ、やめてくださいって土下座して頼んでいたのは何なんですか?

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幸代

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ヘタレ男

土下座に見えましたか?暗いからしゃがんで探してたんです。

何を探してたんですか

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幸代

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ヘタレ男

だから10円玉、自販機のクリームソーダを買おうとして小銭を落としたんです。

あの3人の酔っぱらいは、あなたに襲い掛かろうとしているように見えましたよ。

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幸代

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ヘタレ男

自販機横の飲食店が出したゴミに躓いて1人が転んだんです。
それを2人が起こしながら、こいつが邪魔なんだ!片づけちまえ!と言ってゴミをどかそうとしたんです。


ヘタレ男は何事もなかったように淡々と続けて言った。
「ごみの横に落ちた僕の10円玉がゴミに押されて道の脇の側溝に落ちそうになったんで、やめて下さいっ! て言った時にあなたが現れたんです。
あなたを止めようと思ったんですが、一瞬の差で3人は倒れてました。
まあ、3人は大したケガも無いようでしたし、10円玉も側溝に落ちずに済んだので大丈夫です。」
言いながらヘタレ男が立ち上がると、身長168cmの幸代より10cm以上背が高かった。

幸代はうなだれて言った。
「やだ私、自分で転んだ人と、ゴミを片付けようとした人を、蹴って殴って突いたんですね。追いかけて謝らなきゃいけないわ。」

ヘタレ男が言う。
「その必要はないと思います。」
「どうしてですか?」 幸代が聞くとヘタレ男が言った。
「はい、3つの理由があります。」
「酔っぱらってここの先でも通行人にぶつかって罵っていたこと。
やめてと頼んだ僕の声にも、あなたの声にも耳を貸さなかったこと。
警察だ!という声がしたら逃げて行ったことです。」

確かに。やましいことがあるのかも知れませんね、でも誰が警察を呼んだのでしょう?

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幸代

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ヘタレ男

誰も呼んでないと思いますよ。

でも、私には「警察だ!」という声が聞こえました。

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幸代

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ヘタレ男

それは僕が後ろを向いて壁に響くように大声で言ったのです。

そうすると、この騒ぎはその10円玉のために起きたということですか?

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幸代

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ヘタレ男

10円ですよ!

10円でしょう?!

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幸代

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ヘタレ男

10円玉って、溝に落れば金属クズになって終わるけど、人の手に戻れば日本中を何千回、何万回も回って役に立つじゃないですか。

確かに!10円玉でも人の間を回れば10万円、100万円以上の価値になって役立ちますね。

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幸代

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ヘタレ男

そうです、嬉しいなぁ!!こういう話を分かってくれる人に会えて。

お金は回してこそ価値があるって祖父がいつも言っているんですけど、意味が分かった気がします。

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幸代

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ヘタレ男

あっ、本物の警察が来ました、面倒になるといけないのでここから離れましょう。


二人は駅に向かって歩き出した。
幸代は自分の早合点が嫌になっていたが、ヘタレ男は楽しそうに見えた。
新宿駅の改札が近くなるとヘタレ男が言った。

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ヘタレ男

今日のお礼と言ってはなんですが、あさっての土曜日にクルーズ行きませんか?

クルーズですか?

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幸代

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ヘタレ男

はい、午前中だけのクルーズです。

土曜の午前中なら大丈夫ですけど、私はお礼されるようなことはしてなった訳で‥‥。

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幸代

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ヘタレ男

そんなことありません、僕の10円玉を助けてくれました。

10円玉のお礼ですか?

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幸代

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ヘタレ男

そうです、じゃあ土曜の9時に新宿駅の南口で待ってます。


幸代は帰宅すると両親に話した

あさって、クルージング行くから。

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幸代

誰と行くの

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幸代の母

新宿で3人組の酔っぱらいにからまれていたヘタレ男さん。

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幸代

本当は勘違いだったんだけど、先に私が酔っぱらい3人を倒しちゃったの。

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幸代

そのヘタレ男さんが正義の味方に一目惚れしてデートのお誘い?

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幸代の母

デートとは違うと思うけど、10円玉一枚をとっても大事にする苦労人。
お金の価値観がうちのお爺ちゃんと同じだったの。

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幸代

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幸代の父

よく分からないけど苦労人のヘタレ男さんは中年かい?

中年じゃないけど30歳くらいかなぁ。

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幸代

10円に困っている苦労人がいきなりクルージングに誘うかしら?

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幸代の母

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幸代の父

お金を大事するのと、お金が無いのとは結び付かないと思うよ。

幸代は海に強いし、船の免許もあるから平気だと思うけど、気を付けて行ってらっしゃい。

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幸代の母

うん。

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幸代

電車とバスでGO!

東京の新宿駅は南北に長い駅、南側の改札口には太い甲州街道が通っている。
駐車禁止だが、タクシーも多いのでそれに紛れて待ち合わせて乗り降りする人も多い。
幸代が新宿駅南口で道路を通る車を眺めて待っていると、改札の方からやってきたヘタレ男さんが、2枚持っている切符の一枚を幸代に渡して言った。

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ヘタレ男

さあ行きましょう!

え、電車?

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幸代

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ヘタレ男

うん、特急に乗るから20分弱だよ。


幸代は子供の頃に祖父から聞いた「貧者の一灯」という言葉を思い出していた。
それは昔からのことわざで、貧しい人がなけなしのお金を使ってお礼や願いを叶えるための寄付をすることだ。

ヘタレ男さんは10円玉をあんなに大切にするから苦労人だろうし、大金持ちでもないだろう。
少なくてもロールスロイスで迎えに来て豪華クルーザーを借り切って、シャンパンを飲むようなデートの誘いではないのは分かっているし、もしそうだったら幸代は断って帰るつもりだった。

でも、幸代の心のどこかには大衆車のレンタカーでいいから、車に乗って来て欲しい気持ちも少しあったので、ヘタレ男さんが車で迎えに来ると勝手に思って甲州街道を見ていた自分に恥ずかしい気がした。

これから何処行くんですか?

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幸代

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ヘタレ男

調布、降りてからバスに乗り換えて10分程で到着します。

調布って多摩川でクルーズですか?

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幸代

祖父と両親が小型船舶一級免許持ってて、私もおととし免許取って祖父の持ってる小型船でクルーズとかするんですけど‥。

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幸代

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ヘタレ男

そうなんだぁ、船も楽しいよね、僕も小型一級免許持ってる。

えっ、そうなんですか、もしかして多摩川で手漕ぎボートなのかと思った。

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幸代

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ヘタレ男

手漕ぎボートは基本だから面白いよ、でもそれは今度にしよう、これから行くのは調布の飛行場なんだ。

えっ、フライトのクルーズだったの?

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幸代

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ヘタレ男

そうだよ。

まさか貸し切りのチャーター?

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幸代

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ヘタレ男

違う違う。

ですよね、乗り合いの遊覧飛行ですか?

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幸代

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ヘタレ男

違うよ。


幸代計算機がシナプスを突いた。
コレハ10円、10円の、10円玉のお礼。

ごめんなさい!私行機に乗ると勝手に思い込んじゃった!
お天気良いし、気持ちいいから、フライトクルーズに行く飛行機を見るだけでも充分です。

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幸代


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ヘタレ男

謝ることないよ、飛行機はレンタルだから。

飛行機をレンタルしてどうするの?パイロットは?

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幸代

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ヘタレ男

僕が操縦する。

え~っ、免許持ってるの?

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幸代

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ヘタレ男

うん、レシプロ機の単発だけどね。

良くわからないけど、パイロットなんだ!

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幸代

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ヘタレ男

オーストラリアで免許取って、日本で講習と試験受けて飛行クラブのメンバーになって飛行機をレンタルしてる。

外国でパイロット免許って凄いですね。

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幸代

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ヘタレ男

日本は厳しくていろいろ大変だけど、カリフォルニアとかだとレンタルも安いし、空は広くて楽しいよ。

そうなんだぁ。

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幸代

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ヘタレ男

ただ、スペインは風も強いし、大雑把なんで、墜落しかけたことがあるんだ。

スペインで墜落?

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幸代

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ヘタレ男

うん、飛行場が閉鎖されてて、燃料切れになって無人島に不時着したんだ。


この人は酔っ払いに絡まれてオロオロしているヘタレなんかじゃない!

おんぼろレンガのヘタレ像がガラガラと音を立てて崩れると、
瓦礫の向こう側にパイロットの冒険野郎が立っていた。

飛行場のクラブハウスに着くとヘタレ男さんが言う。


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ヘタレ男

これはフライトカード。船の乗船名簿みたいなものなんで、名前と住所とかを書いてください。

はい。

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幸代

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ヘタレ男

あと、君の体重何キロ?

えっ、初質問が私の体重なの?

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幸代

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ヘタレ男

小型機はデリケートだから、積載重量と重心計算を記録に書いておくんだ。

そうですか、59.9kg‥、でもダイエットしてるから来週にいや来月には40kg台になります‥たぶん。

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幸代


幸代の体重は本当は60.4kgだが、500gだけサバ読んだ。


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ヘタレ男

59kgは全然大丈夫、あと105kg余裕あるから。

105kg‥って、私これ以上は死んでも太りません!

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幸代

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ヘタレ男

クルーズは1時間の予定だから、トイレ‥‥化粧室はあそこ、僕も手続きしたらここに戻って来る。


二人はクラブハウス出ると小型機に乗り込んだ。


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ヘタレ男

これがスロットル、船と同じで前後に動かすとエンジン回転の増減をして速度調整できる。

はい。

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幸代

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ヘタレ男

このハンドルが操縦桿で船の舵輪と同じ、左右に回して旋回するんだ。

は、はい。

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幸代

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ヘタレ男

船と違うのは、ハンドルの押し引きで上昇と降下することかな。

う、うん。

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幸代

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ヘタレ男

足元のペダルはトリムって言って左右の傾きの調節、スピード出るボートに付いているトリムタブと同じんなだ。

ふ、ふううん。

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幸代

幸代は返事もおぼつかずにと頷くだけで精一杯だ。

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ヘタレ男

簡単でしょう。

簡単ではないと思うけど‥、覚えたい。

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幸代

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ヘタレ男

覚えたいなら、きっと覚らえれる、保証します!


ヘタレ男さんは無線でやり取りしながらスイッチを入れて飛行機のプロペラを回すと、飛行機はゆっくりと動き出した。
飛行機は通路を曲がって滑走路を走り出すとエンジン音が大きくなった。
ヘタレ男さんは頭にかけた無線ヘッドセットのマイクに向かって何か言いながら、操縦桿を引くと、飛行機は舞い上がった。

幸代は子供の頃から洗濯機が回るのを見ているのが好きで、特に洗濯機がブンブン唸りながら回転を速めて脱水が始まる瞬間が大好きだった。
今も同じ気持ち、いや、ドキドキ感とワクワク感が混ざった感覚は、脱水の100倍以上に幸代を興奮させて、文字通り舞い上がらせた。

ヘタレ男さんが小型機の副操縦席に座っている幸代に言った。


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ヘタレ男

正面が東京タワー、右の橋がレインボーブリッジ、左の先がディズニーランド。

幸代が子供の時、祖父の船に乗って海から陸地を見たときに感動した大きな景色が今は眼下に小さく見えた。

幸代は祖母がよく言う自分を捨てれば先にあるものが見えるという意味が分かった。
私は真正面から見ていたから、未来を探そうと頑張っても先が見えなかったんだ。

空に舞い上がるように自分の視点を変えれば全部分かるんだ。
未来は目の前だけじゃなく、正面から見えないその先や裏側も全部未来なんだ。

今日はなんて素晴らしい日なんだろう。


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ヘタレ男

これから、羽田空港を迂回して三浦半島から湘南を回って、帰りは富士山を見ながら戻ります。

なんで空港空港を迂回するの?

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幸代

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ヘタレ男

海は広くても通るところが決まっていて、東京湾だと中ノ瀬航路とか小型船は入らないように注意してるでしょう。

はい、中ノ瀬航路は、横切るときに直角に最短距離で航行するので知ってます。

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幸代

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ヘタレ男

飛行機も空域といって飛べるエリアがあって、空港や基地の近くは決まりがあるんだ。


幸代の眼は外の景色と操縦席にずらりと並んだメーターとスイッチを交互に見たので目が回りそうだった。
あっという間の一時間が過ぎて飛行機は着陸したあとタキシングしてクラブハウスの前に止まった。
ヘタレ男さんは待っていた飛行場の担当者にノートのようなものと数枚の紙を渡すと、戻って来た。

プロポーズと拍手

帰りも当然バスと電車だったが、幸代は行きのような残念感は無い。
それどころか、飛行機の操作や無線のこと、機械の役目とか聞きたいことが山ほどあって、このまま電車も時間も止まって、いつまでも話をしたいと思った。

電車が新宿に到着するとヘタレ男さんが言った。


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ヘタレ男

お腹すきませんか?僕はすきました。

はい、少し。

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幸代

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ヘタレ男

じゃあ、おすすめのお店があるので、ご馳走させてください。


近くの立ち食いソバの暖簾をかき分けながらヘタレ男さんが言った。

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ヘタレ男

ここ美味しいんです、僕はコロッケソバ、君は?

同じのをいただきます。

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幸代


ヘタレ男さんはどこからか椅子を持ってた。

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ヘタレ男

ここのソバはコシがあってダシも美味い、立ち食いと書いてあるのに椅子が有って座れるし、コロッケも美味しくて最高なんだ。


カウンターにチケットを6枚並べると、中のスタッフに言った。

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ヘタレ男

コロッケそば2つにコロッケ2個づつ追加でお願いします。

えっ、コロッケソバにコロッケ追加って、コロッケの大盛りなの?

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幸代

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ヘタレ男

大丈夫、君の体重なら食べれると思うよ。

ここでそれを言うかなぁ!

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幸代


幸代は思った。
車で来ると思ったら電車とバスで、手漕ぎボートかと思ったら飛行機丸ごと独占フライト、その後ご馳走が立ち食い蕎麦なんて、ジェットコースターみたいなアップダウンデートだ。
それに、それに、そもそもこれは、デートなのか???

3個目のコロッケを飲み込んだ時、幸代の口が勝手に動いた。

奥さんはいるんですか?

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幸代

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ヘタレ男

結婚したことはない。

恋人は?

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幸代

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ヘタレ男

いないよ。

独身主義者?

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幸代

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ヘタレ男

違う。

結婚の予定は?

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幸代

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ヘタレ男

ない。


幸代計算機がシナプスを突いた。
チャンスは一瞬、次は100年後!

幸代は反射的に立ち上がって言った。


結婚してください!

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幸代

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ヘタレ男

えっ、誰が?

あなたが!

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幸代

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ヘタレ男

誰と?

私と!

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幸代


言ってから幸代は自分の声に驚いて狼狽えた。
この先は、幸代計算機では予測不能だ。

驚いた顔をしながら、ヘタレ男さんが言った。


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ヘタレ男

じゃあ、一歩下がってこの指を見てください。


カウンターの反対側に2人いたお客は幸代の声に驚いてソバの丼を持ったまま、口を半開きにして幸代を見ていた。

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ヘタレ男

僕が左右の手の指を前後させるから、横に並んで見えたら、はいと言ってください。


ヘタレは右手の人差し指を前に出し、左の人差し指を自分の胸に当てて、だんだんと右手指を自分の方へ、左手指を前に動かした。

指が並んだように見えたところで、幸代は言った。


はいっ!

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幸代

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ヘタレ男

うん、ぴったりだ、結婚しましょう!

これって何かの占いですか?

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幸代

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ヘタレ男

目の検査!揃わないと免許取れないんだよ。

何の免許?

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幸代

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ヘタレ男

飛行機!

誰がとるの?

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幸代

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ヘタレ男

君が!

私が飛行機の免許取ってどうするの?

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幸代

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ヘタレ男

大空を二人で飛ぶんだ!


丼を持ったまま口を半開きにして見ていた二人のお客は、丼をカウンターに置くと拍手をした。
カウンターの中でかき揚げを作っていた二人のスタッフも拍手をしながら言った。
おめでとうございます!

幸代は見知らぬ人の拍手をこんなに暖かく感じたのは初めてだった。
二人は拍手しているカウンターのお客と中のスタッフにお礼を言った

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ヘタレ男

ありがとうございます!

あ、ありがとうございます。

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幸代


ソバを食べかけていた二人のお客も、おめでとう~!と言って再び拍手をした。
拍手に送られて二人は立ち食いソバの店を出ると手をつないで歩き始めた。

お客の一人が 今日は良い日だなぁ! と言うと、
もう一人のお客も そうだ素晴らしい日だ! と言って、二人は握手をしていた。

その場に立って息をしているだけで精一杯の幸代が尋ねた。


あなたは何者なの?

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幸代

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ヘタレ男

フツーのサラリーマンだよ。

そんな、そんな、フツーではないでしょう!

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幸代

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ヘタレ男

会社には個性的な人が多いけど、僕はフツーです。

あなたが、フツー‥。

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幸代


フツー、フツー、フツー‥
幸代計算機は壊れてしまった。
二人は新宿駅の南口に着いていた。


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ヘタレ男

明日の日曜の午前中は家にいますか?

はい、いると思いますが‥。

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幸代

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ヘタレ男

では、結婚のご挨拶に伺います。

えっ、誰が?

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幸代

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ヘタレ男

僕が!

誰に?

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幸代

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ヘタレ男

あなたのご家族に!

家、分かるんですか。

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幸代

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ヘタレ男

はい、フライトカードに書いたのを見ました。

あなたはどこから来るんですか?

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幸代

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ヘタレ男

同じ駅だったんです、ただ反対側だから歩いて30分位かな。

同じ駅なんだぁ、なら帰りの電車も‥。

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幸代


幸代が改札口へ向かおうとすると、ヘタレ男さんが改札と反対の道路を見ながら言った。

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ヘタレ男

じゃ、僕はこれから用事があるので今日はこれで。


言い終わらないうちにヘタレ男さんは走り出した。


えっ、名前、あなたの名前~!

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幸代

幸代が聞いたが、目の前に止まった大きなクレーン車のクラクション音にかき消されてしまった。
ヘタレ男さんは止まっているクレーン車に乗り込んで手を振ると、後続車にクラクションを鳴らされながら走り去った。

一瞬の出来事だった。


プロポーズ報告

新宿からどこをどう歩いたのか、電車に乗った記憶もなかったが、幸代は家に帰った。
両親は遅めの昼食中、と言ってもまだ午後1時を少し過ぎたところだったが…。

ただいまぁ。

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幸代

あら、早いのね、ご飯食べる?

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幸代の母

立ち食いソバ食べた。

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幸代

おソバじゃお腹空くでしょう、少し食べる?

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幸代の母

いらない、コロッケが3個入ってた。

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幸代

まあ、そんなに沢山ご馳走になったの?

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幸代の母

うん、ご馳走というかなんか‥。

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幸代

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幸代の父

フラフラしてるぞ幸代、具合でも悪いのか?何かされたのか?

何にもされてない‥、いや‥、目の検査をされた。

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幸代

殴ったり蹴ったりとかは?

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幸代の母

してない、ていうか私が暴れたことなんて、あるか‥。

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幸代

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幸代の父

それとも船酔いか?

船は無かったの!

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幸代

船がなくてどうしたの?

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幸代の母

飛行機だったの。

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幸代

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幸代の父

そうか、スカイクルーズか、最高だなぁ!

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幸代の父

しかし、ドライブして遊覧飛行して、なぜ立ち食いソバなんだ?

ドライブはしてない、電車とバスで往復。

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幸代

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幸代の父

一点豪華主義か、堅実な奴だな。

もしかして、飛行機は見ただけ?

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幸代の母

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幸代の父

それとも、大勢での乗り合いか?

二人だけ。

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幸代

凄いわ、貸し切りチャーターフライトじゃない。

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幸代の母

違うの、チャーターじゃなくてレンタル。

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幸代

レンタル?

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幸代の母

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幸代の父

操縦は?

ヘタレ男さんが操縦した。

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幸代

やだ、パイロットだったの?

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幸代の母

違う、普通のサラリーマン、って言ってた。

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幸代

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幸代の父

名前は?

分からない、聞いたけどクレーン車のクラクションがうるさくて聞こえなかった。

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幸代

工事してたの?

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幸代の母

ううん、ヘタレ男さんクレーン車に乗って行っちゃったの。

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幸代

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幸代の父

飛行機にクレーン車か、変わってるなぁ。

小型船舶の免許もあるって言ってた。

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幸代

それって、自衛隊の特殊部隊の人じゃない?

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幸代の母

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幸代の父

特殊部隊ならば、酔っ払いに絡まれたりしないだろう。

それもそうねぇ。

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幸代の母

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幸代の父

良く分からない、何があったんだ?

プロポーズした。

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幸代

あら、初デートでプロポーズされたなんて良いじゃない。

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幸代の母

違うの、私がプロポーズしたの‥。

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幸代

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幸代の父

なんで、お前がプロポーズ?

分からない、気が付いたら言っていたの。

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幸代

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幸代の父

それで、どうした?

キスして目出たし目出たしとか?

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幸代の母

だから、目の検査されたの。

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幸代

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幸代の父

何で目の検査?

飛行機の免許取るのに必要なんだって!

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幸代

誰が飛行機の免許取るの?

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幸代の母

たぶん私が‥。

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幸代

それでどうするの。

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幸代の母

二人で大空を飛ぶんだって!

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幸代

わあ、素敵ね、私も飛びたい!

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幸代の母

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幸代の父

で、結婚はどうなった?

目の検査合格だから結婚するって。

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幸代

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幸代の父

かなり変わった奴だなぁ。

会社には変な人が多いけれど、自分はフツーだって。

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幸代

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幸代の父

会社じゃなくて秘密組織とかじゃないのか?

明日、うちに結婚の挨拶に来る。

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幸代

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幸代の父

それを先に言ってくれよ。

ヤダ、美容院行かなくちゃ。

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幸代の母

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幸代の父

庭の池のボートを何とかしないといけないかな。

あ、お爺ちゃん来てたの?

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幸代


いつの間にか、隣家に住む幸代の母親の父、祖父が立っていた。


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幸代の爺

外を通ったら門が開いてたから入ってきたけど、玄関も開いたままで不用心だよ。

幸代が結婚することになったのよ!

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幸代の母

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幸代の爺

それは目出度い、いつ決まった?

今日のお昼、新宿の立ち食いソバ屋さんで。

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幸代

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幸代の爺

いつから交際してたんだ?

してない、これから!

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幸代

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幸代の爺

それは、結婚を前提に交際からってやつだろう。

違うの、フライトを前提に結婚なの。

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幸代

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幸代の爺

よく分からん、何だか眩暈がしてきた。

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幸代の父

明日、先方の方がご挨拶に来るんです。

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幸代の爺

そりゃあ大変だ、散髪に行ってこよう。

ところで、先方のお名前は?

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幸代の母

分からない!

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幸代

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幸代の爺

プロポーズされた時に名乗らなかったのか?

だから、プロポーズは私がしたの‥‥‥。

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幸代

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幸代の爺

ますます分からん、頭が痛くなってきた。

お父さん、後でお母さんも呼んで説明するから、床屋さん行ったらどう?

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幸代の母

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幸代の父

お義父さん、散髪に行く前に池のボートを運ぶのを手伝って下さい。

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幸代の爺

うちの庭へか?

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幸代の父

境の木戸外せば移動できるでしょう。

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幸代の爺

そうだな、確かに庭の小さな池に手漕ぎボートが浮いてるのは、見る人によっては変に思われるかも知れないな。

ビーチパラソルも畳まないといけないわね。

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幸代の母

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幸代の爺

そうだよ、まだ3月なんだから、ビーチパラソルは4月にならないと変だよ。



続く‥(かもしれない)